京都 茶の湯のまち(小川通り界隈)
小川通りって、ご存知ですか?堀川通りから一筋目が油小路、そのひとつ東の南北の通り。
車一台がやっと通れるくらいの北行き一方通行の道ですが、この辺りは、保存地区になっているので、とても静かで風情のある町並みです。
さすがに、表千家、裏千家の近くに行くと、着物姿の女性を多くみかけました。
| 千利休居士(1522〜1591)は、堺の納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、幼名を与四郎と称しました。
祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥といい、その名をとり、正親町(おおぎまち)天皇より許されて、千姓を名乗ったのです。 居士はまた、桃山時代の一大傑物として重んじられ、豊臣秀吉から三千石の知行をうけましたが、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に、 自像を安置したということや、秀吉との茶の精神的な違い、その他の理由が重なって、秀吉によって切腹を命ぜられ、70歳の命を果てたのでした。 時に天正19年(1591)の2月28日であります。 ![]() 裏千家の向かいにある 本法寺・・永享8(1436)年日親上人の創建。日蓮宗。本阿弥家の菩提寺。 |
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裏千家 今日庵 千利休の孫、元伯宗旦(げんぱくそうたん)は、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)とともに茶室を建てて移り住みました。 それが、裏千家の一畳台目の茶室今日庵、利休四畳半を正しく再現した又隠、八畳敷の広間寒雲亭です。 写真は、兜門です。 南隣には、表千家があります。 裏千家ホームページ |
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表千家 不審庵 正保5年(1648)宗且が71歳の時、不審庵を3男宗左にゆずり、末子の4男宗室を連れて、北裏の現在地に今日庵を建て隠居した。裏干家の名は、表千家(不審庵)の北裏にあることから出たもの。 利休遺跡の「不審庵」(深三畳台目)と「残月亭」(色付九間書院)などがある。 利休像を安置する祖堂は、4畳半茶室の黒占雪堂と、反古張席・勝手・水屋などからなる。 |
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官休庵 千利休の孫、元伯宗旦(げんぱくそうたん)の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)が現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めました。 官休庵はその所在地名から武者小路千家と通称され現在に及びます。 武者小路千家のホームページ |
お茶の話・・茶の発祥地は中国の雲南省あたりの山地といわれています。植物分類学でのお茶の木はツバキ科のツバキ属に属します
本格的にお茶が広まってきたのは、鎌倉時代に栄西上人(「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた)が中国(宋)より茶の種を持ち帰ってからです。建仁寺を開くときに上京した栄西は、柿形の陶器に入れた5つの茶の実を明慧に贈りました。
明慧上人が高山寺のある京都栂尾に植えたところ評判もよく、に移植したのが今の宇治茶の始まりです。
建仁寺のホームページ
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2004.9.26