| 西本願寺 浄土真宗本願寺派 (京都市下京区) 2009.10.24 1994(平成6年)12月に、世界文化遺産に登録されました。 西本願寺の能舞台で、はじめて”能”を鑑賞!! (能は、継承されている演劇としては「世界最古」といわれる、日本独自の舞台芸術で、世界無形遺産に指定されています。) 演目は、能 「羽衣 彩色之伝」 出演・・・片山清司(観世流能楽師) |
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| ↑南能舞台 現存する能舞台としては、日本最大のものとして、 重要文化財に指定されています |
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| 能舞台の向かいにある対面所の大広間にお座布団を敷いての鑑賞でした。 太い柱と前列の人の頭の隙間からしか見えなかったのが残念。 舞台では、シテ方、 ワキ方、伴奏担当の囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)、地謡、後見などから、構成されています。 シテは能の中心で、老若男女から、鬼や神、亡霊などのあらゆる役に扮(ふん)し、能面を用いる特権をもつ。 ワキは、つねに現実の男性にのみ扮し、能面を用いず、 舞を舞わないそうです。 謡を謡いながら静々と舞っているシテ方である片山さんの声は、 すごく男性的でよく通る声でした。 「イヨー、ポンッ」という鼓のリズム感や響きが、 耳に心地よかったけど、謡は、言葉がほとんど理解できなかったです。 ワキ役は、シテが舞っている数十分間の間、ワキ柱のそばで、じっとつま先を立てて座っていて、最後に突如立ち上がりました。う〜ん、すごい!! と、妙なところで感動。 日本版ミュージカルって感じかなあ・・・ その良さがわかるまでは、もう少し時間がかかりそうです。 |
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| ↑北小路通りの築地塀 | |
| ↑唐門(国宝) 桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。 彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから”日暮らし門”とも呼ばれています 左が、外から、右が中から見たところです。 |
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| ←入り口 | |
| ↑特別名勝 虎渓の庭 御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れています。 |
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| 今回は、国宝に指定されている”鴻の間”というところで、精進料理をいただきました。 狩野派の華麗な障壁画・天井などに囲まれて、 ちょっと秀吉時代にタイムスリップした感じでした。 2005.3.6 |
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| 太鼓楼→ 時を報せたり、法要の合図として打たれていた 太鼓を備える重層の楼閣建築。 西本願寺は、新撰組第二の屯所となりましたが、 北東にあった北集会所(現在の参拝会館)と 太鼓楼を使用していました |
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| 書院の中の鴻の間と能舞台以外は、残念ながら写真禁止でした。 でも、普段は、なかなか見学できないところだそうです。 南側には鴻の間(こうのま)と呼ばれる対面所があり、 西隣りに雁の間(がんのま)、菊の間(天井に扇の立派な絵がある)、雀の間(抜け雀の襖絵と四季の花を描いた天井画)など、 北には白書院があります。 いずれも豪壮な書院造りの代表作です。 特別名勝虎渓(こけい)の庭(ソテツのある庭・・でも、寒さ対策でわらが撒いてあったので、みえなかった)や 現存する最古の能舞台(国宝)などもありました。 |
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←鴻の間(こうのま)”対面所”国宝 203畳の大広間。 正面に天皇や勅使の御座所である上上段の間、 豊臣秀吉の座る上段の間、 そして各大名の座る下段の間に別れていて、 左側の松の障壁画、右側の梅の障壁画、 天井には一舛毎に姿の異なる鳳凰の絵、 そして欄間にはその名のいわれである雲中飛翔の鴻の鳥の欄間があります。 (左甚五郎の作といわれているそうです) |
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→そこでいただいた精進料理です。 これに、白味噌仕立ての汁物と 最後にお抹茶をいただきました。 (でも、寒くて、寒くて、 震えながらの食事でした。 ええっ!修行が足りない?) |
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| ↑巨松と花鳥の障壁画(狩野了慶作)の一部 絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、白は水晶、赤は珊瑚、緑は銅のサビ)、 400年の年月を経た現在でも美しい色を残しています。 |
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| ↑御影堂(ごえいどう) 大修復工事中 2008年完成予定。 この屋根に使われる瓦は、11万5千枚、一枚は、 およそ民家の屋根の瓦の4枚分の大きさ。 全国から奉仕にくる門徒が洗浄。 新しい瓦には、進納者の芳名が一枚一枚に記されている |
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かおり風景100選に選ばれているところです。 仏具店が多く存在し、 ほのかに、お香のかおりがして、 気持ちを落ち着かせてくれます。 かおり風景100選 この突き当たりにあるのが、西本願寺で |
| なぜ、本願寺は、西本願寺だけが、世界遺産なのか? 1591年秀吉が現在の西本願寺の土地を顕如に寄進。 顕如の死後、長男教如は秀吉から隠退を命ぜられ次男准如が12世となる。 しかし、徳川家康は、1602年教如に烏丸の土地を寄進したので、こちらも12世を名乗って東本願寺を創建。 西本願寺は「本願寺派」東本願寺は「大谷派」という。 東本願寺は、幕末に焼失。明治時代の再建によるため、世界遺産からは、はずされたようです。 |
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| 龍谷大学 当初は1639年に西本願寺に設けられた「学寮」でした。 こんな素敵な明治時代の建物が、京都駅から徒歩10分のところにありました。 |
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| ↑設計および施工:不詳 竣工:明治12年 現在も文学部の教室として使用されている現役の校舎なのである 〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125番地の1 |
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| ↑本光寺 油小路事件(慶応3年) 新撰組参謀・伊東甲子太郎とその一派が惨殺された事件 <伊東甲子太郎らの殉難跡> 七条油小路下がる(西本願寺から徒歩5分) |
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