| 近江八幡 (滋賀県近江八幡市) |
|||
| 近江牛のふるさと | |||
![]() |
←毛利志満 明治12年、まだ日本人があまり肉食を常用していなかった時代に、 滋賀県竜王町山之上出身の竹中久次・森嶋留蔵兄弟が、 東京浅草に牛肉卸小売と牛鍋専門店「米久」(よねきゅう)を開業しました。 これが爆発的にヒットし、数年で26店舗を構えるまでに成長。 「往来、絶えざる浅草通り。御蔵前の定舗の名も高旗の牛肉鍋」と歌われ、 高村光太郎により『米久の晩餐』として詩にとりあげられるなど、 近江の牛鍋は一世を風靡しました。 毛利志満は明治6年に東京浅草に すき焼き・牛鍋専門店「米久」を開業した竹中久次の弟・留蔵を 先陣として開業しました。。 近江牛の生産・供給では130年以上の伝統を誇る店の信頼度は高く、 遠方のファンも多い。 JR近江八幡駅、名神竜王ICから車で各10分。 近江八幡市東川町866-1 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 極上牛刺身 (付け合せは、”ハスイモ”です。 葉柄の断面にレンコンのような小さな穴があることからハスイモと呼ばれています。ハスイモはイモの部分は食べません。葉柄(ズイキ)を食べます 高知県の伝統野菜だそうですよ。) |
名物料理 石焼 | 牛トロにぎり | |
![]() |
サーロインステーキ→ |
![]() |
![]() |
| 近江の国で初めて牛肉を食べたのは甲賀出身のキリシタン大名・高山右近といわれています。
徳川時代には牛肉が「養生薬」の名目で、味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上、賞味されていました。 「養生薬」の人気は高く、静かに浸透、近江牛の基礎ができあがったそうです。 とろける様な霜降りのお肉でした。 満足、満腹、満悦!! 2006.9.4 |
|||
| 毛利志満で”名物料理 石焼”を堪能しました。 2008.8.13 | |||
| オレンジ色と緑色はともに”こんにゃく”です。近江八幡では、こんにゃくといえば「赤」なんです。この独特の赤色は、とうがらしではなくて、三二酸化鉄という食品添加物によるものだそうです。味は、普通のこんにゃくと変わらないですよ。 | |||
| 八幡堀 | |||
![]() |
![]() |
||
| 司馬遼太郎「街道」を行く」にも登場した”近江八幡水郷めぐり” 雅な宮中の舟遊びに似せて、豊臣秀次が始めました。 群生する”よし”が、自然の水路を作り、また、すだれや装飾品の数々は全国的に有名です。 |
|||
| 町並み | |||
![]() |
←ヴォーリス記念館 八幡商人の力によって、明治時代には、 全国初の県立の商業学校(現八幡商業高校)がつくられました。 このとき、英語教師として、アメリカから招かれたのが、 ウィリアム・メレル・ヴォーリス (一柳 米来留・・ひとつやなぎめれる)で、 彼は、建築家としての才能も持っていました。 さらに、彼は製薬会社(近江兄弟社)を設立。 その事業で得た資金をもとに結核療養所(現ヴォーリズ記念病)や 近江兄弟社学園、図書館を開設するほか、出版活動にも取り組みました。 ヴォーリズによる建築物は、現在、近江八幡市内に 20軒余りが現存しています。 そのほか、代表的なものでは、大丸大阪心斎橋店や東京山の上ホテル、 主婦の友社、関西学院大学、神戸女学院大学、 東洋英和女学院などがあげられます。 |
||
| 古い町並み → 電柱がなく、すっきりしてました。 |
![]() |
||
![]() |
←白雲館 明治10年建設の八幡東学校の建物を、保存修理、 復元した擬洋風建造物。観光案内所やギャラリーとして活用されています |
||
| 旧伴荘右衛門邸→ | ![]() |
||
![]() |
←八幡小学校(白いモダンな建物) 学校とは思えないくらい洒落た建物でした。 |
||
| 日牟礼八幡宮・・1000年以上の歴史がある八幡さんです。。 左義長まつり(13基の左義長は、女装した若衆のかけ声も勇ましい火祭り・・ 織田信長が繰り広げた天下の奇祭。 左義長とは、もともと旧暦1月15日前後の小正月に行なう民俗行事の一つ。 正月飾や前年のお札などを竹を組んだやぐらとともに焼きます。 おおたいまつをつくって燃やすところもあるようです。 サギチョウ以外に、ドンド焼き、ホッケンギョウ、サイトヤキなどともいいます。 近江八幡の左義長は、現在では3月中旬の土日に 市中の日牟礼神社の祭礼として行なわれています) 能舞台→ |
![]() |
||
![]() |
八幡山(標高271m)から琵琶湖を望む (山頂までロープウエイで4分 この山に城を築いた秀次公を祀る村雲御所瑞龍寺があります) |
||
| 近江八幡の町は、今から、400年あまり前、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次によって、 織田信長亡き後の安土の町を再現するかたちでつくられました。 そのとき、信長が全国より集めた商人も移り住み、本格的な商業都市が誕生しました 江戸時代になると、幕府直轄の天領となり、将軍家の通行手形を持った商人たちは 各藩の関所を優位に越え、全国を回りました。これが、近江商人の中核をなす八幡商人です。 |
|||
小さな旅
2006.9.4
2004.7.22